1.和光堂※の創設者・弘田長は、日本の小児科の生みの親

1.和光堂※の創設者・弘田長は、日本の小児科の生みの親

栄養不良で亡くなる子どもたちを救いたい!

和光堂※の歴史は、日本の小児科の歩みとともに始まりました。和光堂※の前身にあたる和光堂薬局が東京の神田に誕生したのは、明治39年(1906年)のことです。この和光堂薬局を設立したのは、東京帝国大学(現在の東京大学)に初めて小児科を設けた弘田長(つかさ)博士です。つまり弘田博士は、和光堂※の生みの親であるとともに、日本の小児科の生みの親でもあります。

弘田博士が和光堂薬局を開局した当時の日本の乳幼児死亡率は、1000人あたり150人~160人と非常に高いものでした。現在の日本の乳幼児死亡率は、世界でもっとも低く、1000人あたり2人程度です。現在と比較すると、当時はいかに多くの小さな命が失われていたかが分かります。

この状況を目の当たりにしていた弘田博士は、なんとか乳幼児死亡率を低下させたいと考えていました。子どもたちの病気を治療するだけでなく、病気を予防することにも力をいれたいと考え、当時最も進んでいたドイツの育児製品を輸入し、指導販売をしながら普及させるために和光堂薬局を開局したのです。和光堂薬局で扱った製品は、乳幼児向けの人工栄養品として欧米で大変高い評価を得ていた『滋養糖』や、麦芽エキスの咳止め『セキドメボンボン』、乳児用通便栄養剤『マルツエキス』など、いずれもドイツの一流製薬会社から直輸入した製品でした。また、これらの輸入品とともに、シッカロールなど独自に開発した製品も販売していました。こうして和光堂※は、弘田博士の子どもたちの健康と健やかな成長を願う思いとともに歩みをはじめたのです。

  • 東京帝国大学 初代小児科教授 
    弘田長先生
  • 国産化された製品 左よりマルツ汁エキス、滋養糖、セキトメボンボン

本邦はじめての小児科医・小児科の教科書

和光堂※の創設者である弘田長(つかさ)博士は、もともとは外科医でした。転機は、明治18年(1885年)25歳のドイツ留学を機に訪れました。ストラスブルグ医科大学に留学した弘田博士は、馴れない異国の生活からホームシックになったのです。唯一の慰めは、下宿先の家の子どもと遊ぶことでした。弘田博士の子ども好きを知った恩師のコルツ教授は、当時の日本にはなかった小児科医になることを強く勧めました。こうして日本で初めての小児科が、弘田博士の手で誕生することになったのです。

日本に帰国した弘田博士は、明治21年(1888年)に、東京帝国大学医学部で小児科学の講義を行うとともに、日本で最初の小児科学の教科書『児科必携』を出版しました。当時の日本には小児科という医療分野がありませんでしたから、この本は医学生の教科書としてだけでなく、開業医が小児科診療を行うための指導書の役割も果たしました。

  • 教科書『児科必携』

また、現在の日本小児科学会雑誌の前身にあたる『小児科』という雑誌を創刊したほか、明治29年(1896年)には現在の日本小児科学会の前身となる小児科研究会を設立し、その初代会頭に就任するなど、弘田博士は日本の小児医療の発展に力を尽くし続けました。明治24年(1891年)には、日本の社会福祉事業の先駆けとも言われる婦人共立育英会を設立しました。 京浜地区に住む女性たちに呼びかけを行い、不要品などを売って資金をつくり、貧困児の救済にあたったのです。このような弘田博士の子どもを慈しむ気持ちは、今日の和光堂製品にも受け継がれています。

  • 弘田先生の外来 
    「東大小児科の百年」より

【参考文献】
小児保健研究『弘田長先生-第34回日本小児保健学会・パネル展から-』尾木文之助

※和光堂とは旧和光堂(株)のことを示します。(2017年7月現在)

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